語源からすると、落人は合戦に敗れて僻地に隠遁したもの、及びその末裔を指す言葉である。単に落人と言った場合、源平合戦に敗れた平家の郎党及びその末裔を指すことが多い。華々しい栄華を極めながら、急速に没落の道を辿った平家。源平の戦いに敗れた平家の落人伝説は全国に多数残っている。中でも四国祖谷地方の落人伝説は特に有名である。山を越え、川を渡り、山中に逃げのび、存命を図った平家の落人たち。自然の中に点在する数々の史跡や住居地は、主に中山間地や山の頂付近に居住化している。さて限界集落村が落人の集落と同等に示唆するのは極論かも知れないが、その一端をなすものであるかも知れない。近頃に急速に過疎と高齢化が話題になり、少子高齢化社会が正に到来しつつある今日である。国土交通省調査によると限界集落は全国の過疎指定地域の12.7%に当る7,873集落があり、この内、人が住まない消滅状態に陥る恐れがあるのが2,650集落。10年以内に消滅する集落は422集落という。現実に過去7年間で191集落が消えている。特化して厳寒期に気候条件の厳しい東北地方では約400集落が消滅の危機にある。限界集落では古来、日本文化の基層を担ってきた人々は、中山間地の水田の棚田を所有し、一戸当たりの耕作面積はかぎられていて、平地と比べ生産性は格段に低い。林業も今や輸入外材に押されて衰退が著しい。仕事がなく若い人たちは働く場所を見つけるために都市にでる。残った中高年層のみが高齢化していく。保水力のある森林は治水面で大きな役割を持つ。棚田の貯水機能も重要である。集落が消滅すれば山が荒れ、棚田への耕作放棄が出て荒地化した棚田の下流域では鉄砲水の危険が増す。泥が流れ込む海では磯焼けによって漁業などに影響がでる。何よりも歴史に培われた食文化および伝統文化によって支えられてきた日本文化の基層そのものが消滅することがうかがい知れる。そもそも問題提起となる限界集落と称する概念は過疎化など人口50%で65歳以上の高齢者により冠婚葬祭など社会的共同生活の維持が困難になった集落のことを指す。この概念を1991年に長野大学教授である大野晃教授が提唱した。教授は、65歳以上の高齢者が自治体総人口の過半数を占める状態を「限界自治体」と称した。この定義を集落単位に細分化した場合、限界集落の継承する直前の状態を「準限界集落」と表現し、55歳以上の人口比率が50%を超えている場合とされている。一方、限界集落を超えた集落は「超限界集落」から「消滅集落」へと転化する。2006年に財政再建団体になった北海道夕張市では65歳以上比率が41%と、市ではもっとも高齢者比率が高く、財政再建の前に市が消滅するのではと深刻切迫化した問題を抱えている。限界集落の世帯では老人世帯と独居老人世帯が大半を占め老人は一応に「昭和20年以降の戦後の食料増産に励み、子供を都会へ送り出し、ふと気がつけば、農業・林業が不振による人工林の放置林化で山は荒廃の一途を辿った。人の手の入らない人工林は日光が遮断され下草も生えない地表面で野鳥の生態反応もない「沈黙の森」。これが病める現在の山村の姿であり限界集落として沈黙の森は象徴的特長をもつ。円滑な生態系循環機能の欠落は住処を奪われた野鳥が姿を消し、荒廃し保水力を喪失した人工林は水源として枯渇するだけでなく時として災害時の土石流を呼び水棲昆虫・魚族のすべての住処を奪い、むき出し表土は雨水で河口に流され沈殿堆積物は、つきるところ、磯焼けした海岸域を形成するに至る。限界集落に暮す高齢者の多くは現在住んでいるところで暮らしたいと考えています。それは60年70年暮らしてきた老人にとって「山」は自分の生活に溶け込んでいる存在があり、そこで暮すことが最もストレスのない生活の場になっている。老人が街に降りなくても生鮮食料品の確保や年金が引き出せるような最低限度の生活が維持できる施設(ミニマムライフ)を行政が設置し慎ましやかな老後を送れるよう手立てを考えるべきであろう。こうした施設があれば、団塊世代や山村暮らしに関心を持つ若者が農家にホームステイするなど歴史や自然に親しむ地域交流によっては定住化が一定期待されることが伺える。
国の施策で内閣官房が提唱する「美しい国づくり」プロジェクトでは四季折々の風景、伝統が織り成す技や文化、日々の生活の中にある日本の美しさ。私たちの国、日本には、様々な分野で本来持っている良さや薫り豊かなもの「、途絶えてはいけないもの、失われつつあるもの、これから創っていくべき美しいものがあります。私たちの国の未来を確固たるものにするため、私たち一人ひとりが美しい国づくりへのきっかけを創ろうとすることが美しい国づくりのプロジェクトテーマである。」このような環境背景を、固有的に、帰来から保持してきた限界集落では、根付いた伝統的文化を持つ祭事や風習慣習にその存在意義があって、今、その事象が消滅集落化となって途絶を余儀なくされようとしている。古来、限界集落に暮す人々は、過去に苦難を特に抱えること無く、慎ましく暮らせた事が、何故に今、その居住権利が主張できず機会もない静寂にして沈黙のみが滞留する。事の改善策を講じ、受け皿であるべき行政行使が不調に終始している。気づけば時流の中に静寂の中で、人も村も廃墟し自然消滅していくのだろうか。いたたまれない悲壮感と沈痛感とを覚える。国はこのように廃墟化していく限界集落の人々を定住化を前提とした過疎対策とは逆に集落に住む全ての住民の「集団移転」を推奨し、補助金を出す事を検討し始めている。豪雪地帯の少集落では雪への対応が困難になっている。こうした施策が住民合意で集団移転するとなった場合、住民の転居費用などを国も補助しようとする政策が検討されている。つまり定住を支援するより移転を支援した方が除雪対策をはじめ行政的コストが安く経済的とする思考である。つまり集落の存続を断念するケースを想定して政策転換を考えざるを得ないほど事態は深刻の一途を辿っている。そもそもこのような事態が生じさせたのは自然破壊や気候変動が主体動機になって集落が消滅してくるのではなく、世代を継承すべき若者の自由な自己の意思(離村)と、経済的基盤を支える産業がそこに存在しない事が根源として潜在している。生態系循環理論からすれば、人工林や棚田が放棄された上流域である山間と川と海とは自然生態系として有機的に結束した総体的な存在をもちます。ですから上流・中流・下流の流域社会圏の中で下流域住民が上流民の問題を自らの問題として深刻に捉え、上流への多面的支援を行いつつ流域住民が一体となって流域環境を共同で保全管理していくことが必要である。「山」が豊かであれば「川」や「海」が豊かさに繋がるとする流域共同管理思想を認識する時期にあるのではないのかと。このような考えに立てば限界集落が支える意義は誠に重要といわざるを得ない。