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2006年11月 アーカイブ

2006年11月27日

とある家庭菜園の報告

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小生は畝幅70cm実長20mの畝3本を耕作する地主である。土地は賃貸である。しかしながら地代はかつて支払ったことはない。土地の所有者は高齢化の波にながされ土地管理が出来ない状況にあるらしい・・・。私は荒れて水はけの悪い粘土質の地に牛糞・籾殻・本肥を耕作の都度に与え土壌改良を図ってきた。借用してから5年。やっと、なんとか心いく野菜が生育するようになった。四季を通じて時期に応じた季節野菜の苗を種苗屋から買ってきて植えるのだが一本70円から120円(接木)相当のポット苗を数十本買い求め概して野菜成果品価格と比較しても苗購入費は賢い主婦から見れば陳腐としかいいようがない値段に苦笑しつつも、過密密植した箇所を除き、猫の額ほどの閑地に貪欲に狭小に植栽したい気持を抑えつつ適度な間隔を保ちながら植え込みを行うのである。大げさではないが、種を撒く時、苗を植する時も「丈夫で元気に育てよ!!」と心に念じ手先に気を込め祈願するのである。こんな事から家内はこの野菜を総じて「愛情野菜」と呼んでいる。できた野菜は我が家で食すより大半は近隣近傍に差し上げ、お愛想にも「あのお野菜甘かった!」との一言のため全霊と他ままない労力・資力を投じている。ところで野菜を育養する上で必要悪な行為に殺虫剤の散布がある。顆粒・粉末・希釈溶解などの性状をもつ薬剤は使用方法と用途は病害虫に相応して多義に渡る。野菜を育てる上で最も重要な時期つまり幼育期に其の土に土着化し定着するまでの養育期間に害虫被害を受けると、ほぼ壊滅的な状況に陥る事が多い。特に苗中心部のダメージは致命的で俗称「心食い虫」たる害虫にやられると元も子もない。つまり中心部が皆無で外葉数枚のみ有し、しかもその外葉のみが成長する様は、悲しくも気味悪く見苦しい野菜が残存する事になる。中国野菜等のチンゲン菜に多く認められる。一般に害虫は遺伝子構造上、野菜の「食すると美味なるところ」をいたく周知していて野菜徒長期に最たる実害を与えるものである。近年、低農薬や無農薬有機栽培の付加価値の持った季節野菜が市場に出回って相当数の愛好家に人気を得ているが、中でも無農薬栽培法は害虫駆除を農薬に依存する事なく、自然生態系が育む良質な環境条件下で害虫と天敵とがせめぎあいの中、一定の操作要件で干渉しあった結果、過分ではないが何がしかの収穫をもたらされる栽培農法と思料している。このような栽培法は現役を引退した定年退職者が行う自家菜園ならまだしも勢い生産性と収益を先行した近代農法(大量農薬散布)ではこんなのんきなことを言っておられない。比較的農業が活性化した北海道の生産地があっても、日本全体の食物自給率は約20%程度に留まっていて大半は東アジア圏域の輸入食材に依存している。食するもの全ては安全な物を食したいと誰もが願ってはいるが、近年、食品競争が激化する国際社会ではいきおい生産量と生産コストのみに依存した評価基準で決定がなされている。従って国内生産地では勢い歩留まりのない高収穫低コストの生産品を得るため高頻度使用の農薬散布は必要悪であっても必須条件と考えられるように成って来た。このような背景をもってしても国際競争の激化した中では生産性・価格競争に敗退していく自国の日本農業が実在している。最近一部の農業従事者の中には付加価値をつけるため低農薬農法や無農薬農法などを採用試行されてはいるが、このような安全な食品野菜を日本人はあえて嗜好し選択肢している人はどれほどおられるだろうか。高齢化が進み近代農法の実現が見込めず先行きが立たない日本の農業は、この先もこのまま放置していていいのかと誠に切ない思いや危機感を持つのは私のみかと!!視点を変えて、ここで野菜生育の条件要素について思考してみた。野菜には温度・日照・土壌・など生育環境によって大きく生育は左右されるものである。これらの操作要件は野菜の姿見・食感・食味等を決定付けるものである。不思議にも野菜の見栄えは必ずしも味に相応しない。形・色を良しとしても意外性があり、むしろ見栄えの悪い奴ほど生き抜いた証があり味が濃厚にし凝縮し美味なるを経験上から知っている。農薬散布でふと気付くことに生理視覚的に嫌悪する害虫と、よく目にする雨蛙とがいる。降雨少なき時、里芋の茎近くに住まいし眼光するどい奴おれば、実に愛嬌のある奴もいる。薬剤散布の最中に見つけた折には心して散布を避ける心やさしき気持を有する。ダメージを与えてはと!いとしく思えるのもしかり。しかし一方でキャベツにつく青虫は出来るかぎり昼夜を問わず手で取り除くが、どうしても農薬使用を余儀なくする場合がある。散布直後に青虫が悶絶し死する様を見据えた時、はたと「これでいいのかと罪悪感の極みがある。」これではたして人間のエゴイズムだけで全てをコントロールしてもいいのかと嫌悪する。つまりは害虫(厳密には益虫かは未定)から益虫の全ては相互循環サイクルの中で個々の機能を発揮し相乗的に且つ体系化し結果においては支援し合い公平に共存共栄の生態系社会を作っていると考えている。人はこのような秩序あるそして均衡が取れている生態系社会を、その循環バランスを農薬などによって阻害してはならないのでは・・・と。主観感性の域を超えないがこのような行為は自然界のもつバランスを著しく不安定なものにしているのではと考えている。そもそも自然論や環境問題を議論するには「主体」を明確にしなければならないと考えている。つまり主体が人間であるのか動植物であるかによっては議論されなければならない事で環境問題の要点が全く変わってしまうからです。人を含むあらゆる動植物は環境との応答関係によって其の姿・形そして生活形を環境に適応し生き延びるために変化させてきました。別な言い方すれば環境こそが、主体である生き物の生きる姿を決定し、且つ、その主体としての生き物もまた生きる行為を通じて環境に影響を与えその環境を変化させるといった関係が成りたって来た。私たちの先祖は畏怖の対象である自然の豊かさの点で自国日本の特色ある自然とせめぎ合いながら生活を営んできました。その結果ほど良い按配で自然と折り合う方法を見出してきた。自然には逆かわらず自然のあるがままに任せながらも叡智ともいえる「柔能く剛を制す」手法で気まぐれな自然の営みから効率よくその恵みを引き出す事に成功しました。人は、つまりは自然に対して受容的・忍従的になってこそ動植物との環境に一体化し、しかも一員になるでは・・・とわたしのみが感じることなのか・・。
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2006年11月07日

悉皆屋と長屋の大家

悉皆屋「しっかいや」という言葉が江戸時代にあったらしい。


この業は大阪で衣服・布綿の染色・染返しなどを請け負い、これを京都に送って調整させることを業としたもの。転じて染物や洗張りをする店をゆうらしい。江戸時代にはごみや不用品は循環型社会形成基本法の最たる3R、つまりリデユース・リユース・リサイクルといった循環システムの中で再利用されてきました。


例えば1枚の着物は「悉皆屋」と称される「染物」を主にしたよろず屋に任され、古着として売られ、やがて着物として着る事が出来なくなると、その生地をばらばらにして縫い合わせ、着物に加工したり布団カバーに再加工したりします。さらに使われなくなると、其れをほぐして編みこみ背負子の紐に加工するなど徹底した再利用がされたらしい。


江戸時代の糞尿もまた循環しました。農地にそれが持ち込まれ腐熟されたのちに肥料となった。長屋の大家が店子の家賃の不払いがあっても追い出さないのは、家賃もさることながら、店子の糞尿を売ったほうが儲けが大きかったからだとする逸話さえある。糞尿の売買は別として、私の知るかぎりでは、昭和30年代には各家庭の糞尿は多かれ少なかれ薩摩芋などの下肥に使用されていたように記憶している。


またこれに付帯する肥溜めが漫然と農地の一角を占拠していて、これに拘わっての嘲笑逸話も多い。一見、時代錯誤も甚だしいが、事の本質はこの江戸時代の遺伝子を現代に継承したものが循環型社会形成思考ではないのかと・・・。ところで、このような物質循環システムは衛生面でも都市環境の安定に寄与しました。いわゆる伝染病で日本の都市が壊滅したという史実ははありません。


西洋諸都市のように伝染病により住民の相当部分が罹病し都市が壊滅に近い状態にまで追い込まれるようなことは起きませんでした。伝染病から都市を守るための下水道が普及するまでの間、同時期の欧州諸都市の市街地では、街路にゴミや糞尿がそのまま捨てられていて当たり前という極めて不衛生な様相を呈していたといわれています。女性のハイヒールの原型は、通路にたまる塵埃から足元を守るため靴の高さを上げたスタイルの名残りととする説があったようです。
                                         
                                         
                                              「景観から見た日本の心」から

自然治癒力と自然浄化能力

とある医師のESSAYから・・・。「私達は風邪をひいても、傷を負っても自然に治ってしまう。この原理原則は多くの他の病気でもそのことが言える。無精して中々治りにくい病気にかかることもあるが普通は治る病気のほうが圧倒的に多い。


だから安心して暮らせる。このように自己の身体自らが持つ病気を治す力を「自然治癒力」と呼ぶらしい・・。つまり「自然治癒力」とは代謝機能を高め、からだの防御力をあげ壊れた組織を修復する力を呼び起こす事であり代謝を高めるための決定打は発熱することにあるらしい。つまり治ることは熱を出すことである。


治ることと熱の関係はやけどしたら赤く発疹し熱をだす。日光にあたり過ぎて日焼けしたときの火照りがでる。霜焼け・凍傷のときにも発熱する。このような状態は怪我でも風邪でも同様の様を呈し、すべてが細胞組織の修復反応として出てくるらしい。以上の事から治る力とは発熱であり腫れであり痛みであるとの事である。


現代医学ではこのような自然治癒力の本質を見抜けず対症療法で止めにかかる流れになっていて、医師の中には「患者から苦痛をとってやる事が医療の最大の目的である。」とする人もいる。


しかしながら苦痛をとる事は自然治癒力を奪う事でもある。」がしかし、全ての傷病に対して過度に治療を施すことは、先天的に、人が固有する良性の免疫抗体をいたずらに削ぐのでは。つまり傷病に対し弱体化することえの弊害として発現するのではと恐れを感じざるを得ない。かくゆう小生は服用依存型思考症候群の持ち主でもある。


視点を変えて、ここでは異なる要素を持ったものから共通化する問題の原点を整理してみる。この世に人間社会が存在するかぎり生活圏では廃棄物とは絶対的な不可分の関係にある。例示すると自然界にも、この自然治癒力に相当する「自然浄化能力」が存在している。


自然浄化能力とは、環境悪化が進む存在下でも「人為的関与なくして一定の環境が保全される自然治癒能力」をゆう。自然界に於いては直接的には生態系循環能力の容量を超える廃棄物が排出されない限り、本来、自然生態系がもつ浄化能力の支えによって公衆衛生や環境保全が堅持されるものである。


しかしながら一度、生態系循環能力つまり自然治癒力を超過する廃棄物が排出されると、超過量に相応し、加速的に自然破壊が顕在化してくる。このことに関し、自然はその事実を明示的に訴える手段がなく、しかもその破壊に伴う金銭的補償をうけるすべもなく、そのため生産者・流通業者及び消費者は廃棄物問題に伴う自然破壊の深刻さを認知しないまま、使い捨て型の生活様式を変えようとしないのである。


人は廃棄物に対し、其の取扱についてはぞんざいにしすぎる嫌いがあって廃棄物が爆発的潜在破壊力を秘めている事実を十二分に周知していないのかもしれない・・・。今もそれが際限なく続いているのでは・・・・。

エジソン博士

エジソン博士の紹介

ごみと環境(かんきょう)について研究している博士です。
もとにカエル、よみガエル、いきカエル、もちカエル、かんガエル、つカエル…。
そんな意味(いみ)から地球を守るという使命感(しめいかん)をせおって、この研究をはじめました。

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